眠りの科学ラボ

睡眠テックにおける脳機能計測の新境地:近赤外分光法(NIRS)の科学と応用

Tags: NIRS, 脳機能計測, 睡眠テック, 近赤外分光法, 脳血流, 睡眠研究

はじめに:睡眠中の脳活動を測る意義

睡眠は単なる休息時間ではなく、脳の活動が複雑に変化し、記憶の定着や心身の修復が行われる重要な生理現象です。従来の睡眠研究や睡眠テクノロジーでは、主に脳波(EEG)、眼球運動(EOG)、筋電図(EMG)といった生理信号が睡眠段階判定や異常検出に用いられてきました。しかし、睡眠中の脳機能のより深い理解、例えば特定の認知機能の活動状態や、脳血流・酸素化レベルの変化を非侵襲的に捉えることは、睡眠の質評価や介入技術の開発において新たな可能性を拓きます。

特に、睡眠中の脳血流や酸素化レベルの変化は、脳の代謝活動や神経活動と密接に関連しており、深い睡眠(徐波睡眠)における脳血流の減少や、レム睡眠中の活動亢進などが知られています。これらの変化をリアルタイムかつ非侵襲的に計測する技術は、睡眠のメカニズム解明だけでなく、より精密な睡眠状態の評価や、個別の脳機能に合わせた介入技術(例:特定の脳領域の活動を促進・抑制する刺激)の開発に貢献すると期待されています。

本稿では、このような睡眠中の脳活動、特に脳血流・酸素化レベルを非侵襲的に計測する技術として注目されている近赤外分光法(NIRS: Near-Infrared Spectroscopy)に焦点を当て、その科学的原理、睡眠計測への応用、そして睡眠テクノロジーへの可能性について解説します。

近赤外分光法(NIRS)の科学的原理

NIRSは、生体組織、特に脳組織の血流および酸素化状態の変化を非侵襲的に計測する光学的手法です。この技術の基礎となるのは、近赤外光が生体組織に対して比較的透過性が高く、特にヘモグロビンがその吸光特性において重要な役割を果たすという性質です。

生体内には、主に酸素化ヘモグロビン(Oxy-Hb)と脱酸素化ヘモグロビン(Deoxy-Hb)という2種類のヘモグロビンが存在します。これらの分子は、近赤外領域(約700nm〜900nm)において異なる吸光スペクトルを持ちます。 * Oxy-Hbは、約800nm付近で吸光度が低く、約760nm付近で吸光度が高い傾向があります。 * Deoxy-Hbは、約800nm付近で吸光度が高く、約760nm付近で吸光度が低い傾向があります。 約800nm付近にはアイソスベスティックポイント(等吸収点)と呼ばれる波長が存在し、Oxy-HbとDeoxy-Hbの吸光度がほぼ等しくなります。

NIRSでは、通常、異なる波長(例えば、735nmと850nmなど)を持つ近赤外光を頭皮上の特定の位置から照射し、数センチメートル離れた位置で反射または散乱してくる光を検出します。この際、照射された光は頭皮や頭蓋骨、脳組織などを通過・散乱して検出器に到達します。光が組織内を通過する際に吸収される量は、その経路上の物質(主にOxy-HbとDeoxy-Hb)の濃度と光路長に依存します。

検出された光強度の変化から、Modified Beer-Lambert法を用いて組織内のOxy-Hb濃度変化とDeoxy-Hb濃度変化を算出することが可能です。Modified Beer-Lambert法の基本式は以下のようになります。

$$ \Delta A = \epsilon \cdot \Delta C \cdot L \cdot DPf $$

ここで、 * $\Delta A$: 吸光度の変化 * $\epsilon$: 吸光係数(物質の種類と波長に依存) * $\Delta C$: 物質濃度(Oxy-HbまたはDeoxy-Hb)の変化 * $L$: 光路長 * $DPf$: 拡散係数(Differential Pathlength Factor)

異なる波長の光を用いることで、Oxy-HbとDeoxy-Hbそれぞれの濃度変化を独立して推定できます。これらの濃度変化は、特定の脳領域における血流や酸素代謝の変化を示す指標となります。例えば、神経活動が亢進すると、その領域への血流量が増加し、Oxy-Hbが増加し、Deoxy-Hbが減少する傾向が見られます。

NIRSは非侵襲であり、比較的ポータブルな装置で計測が可能という利点があります。また、脳波(EEG)が神経細胞の電気活動を直接的に捉えるのに対し、NIRSは血行動態を捉えるため、補完的な情報を提供します。

睡眠中の脳血流・酸素化変化とNIRS

睡眠中の脳血流・酸素化状態は、睡眠段階によって特徴的なパターンを示します。 * 徐波睡眠(NREM Stage 3/4): 大脳皮質の活動が低下し、それに伴って血流量も減少します。NIRSでは、特定の皮質領域でOxy-Hbが減少し、Deoxy-Hbが増加する、あるいは総ヘモグロビン(Oxy-Hb + Deoxy-Hb)が減少するといった変化が観測されることがあります。これは脳の代謝要求が低下していることを反映していると考えられます。 * レム睡眠: 脳波上は覚醒に近いパターンを示し、脳の活動レベルが高まります。特に感情や記憶に関連する脳領域(扁桃体、海馬、前頭前野など)の活動が増加すると考えられており、NIRSではこれらの領域で血流量が増加し、酸素化レベルが高まる変化が観測される可能性があります。

NIRSを用いた睡眠研究では、これらの睡眠段階における局所的な脳血流・酸素化変化を詳細に解析することで、睡眠中の脳機能ダイナミクスを非侵襲的に理解しようとしています。例えば、特定の認知課題の後に睡眠をとらせ、その間のNIRSデータを解析することで、睡眠中の記憶固定に関わる脳領域の活動を血行動態の観点から評価するといった研究が行われています。

睡眠計測・睡眠テクノロジーへの応用と課題

NIRS技術を睡眠計測や睡眠テクノロジーに応用する際には、いくつかの可能性と課題があります。

応用例の可能性

  1. 睡眠段階の補足情報としての利用: EEGによる睡眠段階判定に加え、NIRSによる脳血流・酸素化情報を組み合わせることで、より精度高く、あるいはより詳細な脳の状態に基づいた睡眠段階判定が可能になるかもしれません。特に、NREM睡眠中の深さや、レム睡眠中の脳活動レベルの個人差を捉える上で有用な情報となる可能性があります。
  2. 睡眠中の脳機能評価: 睡眠中の認知処理(例:記憶の再構築、問題解決)に関わる脳領域の活動状態をNIRSでモニタリングし、その効率性を評価する。これは、学習やパフォーマンス向上を目的とした睡眠介入技術の開発に繋がるかもしれません。
  3. 睡眠障害のメカニズム解明と診断補助: 睡眠時無呼吸症候群や不眠症など、特定の睡眠障害における脳血流・酸素化の異常パターンをNIRSで検出し、病態理解や診断の補助に役立てる。
  4. 睡眠介入の効果評価: 音響刺激や電気刺激といった睡眠介入を行った際の、特定の脳領域の血流・酸素化応答をNIRSでリアルタイムにモニタリングし、介入効果を客観的に評価する。
  5. 次世代睡眠デバイスへの搭載: 小型・ポータブル化が進むNIRSセンサーを、ウェアラブルデバイスや非接触型の睡眠モニタリングシステムに組み込むことで、より詳細な脳情報を取得できる可能性があります。

技術的な課題

NIRSを睡眠計測に応用する上での主要な課題は以下の通りです。

  1. 体動アーチファクト: 睡眠中の寝返りや体動は、NIRSプローブの位置ずれや頭皮との接触状態の変化を引き起こし、大きなノイズ(アーチファクト)となります。これを抑制または除去するためのロバストなプローブ固定方法や信号処理技術が必要です。
  2. 深達度と空間分解能: NIRSの光は主に大脳皮質の表層数センチメートルにしか到達しません。深部の脳構造(視床、脳幹など)の活動を直接計測することは困難です。また、空間分解能はEEGよりは高いですが、fMRIには劣ります。
  3. 頭皮血流の影響: NIRS信号には、脳の血流だけでなく、頭皮の血流変化も含まれます。睡眠中の頭皮血流変化は脳血流変化とは異なる場合があり、これを分離するための高度な信号処理技術や計測プローブの工夫(例:ショートディスタンスチャンネルの利用)が求められます。
  4. ポータブル化と装着感: 睡眠中に長時間快適に装着できる、小型・軽量でケーブルが邪魔にならないNIRSシステムが必要です。特にウェアラブルデバイスへの搭載には、センサーの miniaturization 技術が不可欠です。
  5. コストと複雑性: 既存の睡眠ポリグラフ検査(PSG)などと比較して、NIRS装置はまだ高価で操作が複雑な場合があります。

最新の研究動向

近年の研究では、これらの課題克服に向けた技術開発と、睡眠研究へのNIRSの応用が進んでいます。 * 小型・ワイヤレスNIRSシステムの開発: 睡眠中の自由な動きを妨げない、小型軽量でワイヤレスのNIRS装置の開発が進んでいます。これにより、より自然な睡眠環境下での計測が可能になりつつあります。 * 信号処理技術の進化: 体動アーチファクト除去、頭皮血流成分分離、脳血流・酸素化変化のより正確な推定のための高度な信号処理アルゴリズム(例:独立成分分析(ICA)、主成分分析(PCA)などのブラインド信号分離、機械学習を用いたノイズ除去)が開発されています。 * マルチモーダル計測: EEG、EOG、EMGといった他の生理信号とNIRSデータを同時に計測し、統合的に解析することで、睡眠中の脳活動を多角的に理解する研究が増加しています。例えば、EEGの徐波活動とNIRSで観測される脳血流変化の関連性などが詳細に調べられています。 * 特定の睡眠介入との組み合わせ: 音響刺激による徐波睡眠増強効果を、EEGだけでなくNIRSによる脳血流変化からも評価するといった研究が行われています。

これらの研究は、NIRSが睡眠研究において重要なツールとなりつつあることを示唆しており、将来的には、より詳細な脳情報に基づく次世代の睡眠テクノロジー開発に繋がる可能性を秘めています。

まとめ:NIRSが拓く睡眠テクノロジーの未来

近赤外分光法(NIRS)は、非侵襲的に脳血流・酸素化状態を計測できる技術として、睡眠中の脳活動ダイナミクスを理解するための強力なツールとなり得ます。睡眠段階に伴う脳血流変化の観測、特定の脳機能に関わる活動の評価、そして睡眠障害のメカニズム解明など、基礎研究から臨床応用まで幅広い可能性を秘めています。

体動アーチファクトや頭皮血流影響といった技術的な課題は残されていますが、小型化・ワイヤレス化、信号処理技術の進化、他の生体信号とのマルチモーダル計測といった最新の研究動向は、これらの課題を克服しつつあります。

将来的には、NIRS技術がより小型・安価になり、既存の睡眠モニタリング技術と融合することで、個々の睡眠中の脳状態を詳細に把握し、それに基づいたパーソナライズされた睡眠改善ソリューションや介入技術を提供する睡眠テクノロジーが実現されるかもしれません。脳機能の観点から睡眠の質を評価し、最適化を目指すことは、睡眠テック分野における新たなフロンティアと言えるでしょう。